2010年07月19日

本の将来−1990年代の芥川賞作品の六割は戦力外通告になる

昨日、近所の本屋に行くと異変が起こっていた。文芸書のコーナーが頗る縮小していて、新書のそれが大きくなっていることである。とともに自己啓発書の類が増殖しているような気がしてならない。
大規模な書店が増えて来ているが、多くの書店はその店舗面積は限られている。
しかし「できる自分に」「ポジティブに」「これからを」「勝ち抜くには」「得する」「知らないと損する」「これからは通用しない」「常識を」「改めなさい」「捨てなさい」等等のキーワードの題名の新刊が山のように入荷されてくるわけである。こいつはたまったものではない。
勢い出版される書籍は淘汰されるわけである。

その淘汰の状況の理解りやすい例として芥川賞受賞作品で説明することにする。わたくしは芥川賞の権威は否定しないが、その内容が必ずしも優れているとゆうことは別であると前もって申し添えておいて。
2000年から2009年までの十年間の受賞作品22作は、店頭で入手できるか否かは別にして全て刊行されている。十割である。勿論文庫化されたもの含む。さすがだ。
ところが1990年から1999年までの十年間の受賞作品22作(偶然にも同数である)はそのなかの13作品が廃刊となっている。約四割が残る。文庫が他社に移った奥泉光は廃刊にはカウントしていない。したがって芥川賞作品は十年以上二十年近く経つと約六割が出版業界から見放されるとゆうことを意味する。
司法試験合格したからといってリッチな弁護士生活が保障されるわけでもないし、医師になったからといって楽勝ではなく苛酷な労働条件下に置かれる恐れもある世のなかである。

芥川賞受賞してもそれだけではその後の生活は安泰ではない。
この怒濤のごとく新刊が氾濫する出版業界のなか十年経って、これといった作品を続けて出さないことには戦力外通告を受けるのである。
純文学って儲からないもんねえ。そんなに部数が出ないもん。印税もしれている。能弁なひとだったらば芥川受賞作家として講演会するとか、大学の講師になるとか、テレビの評論家になるとか、なにか兼業しなければやっていけないのが実状だろうと想像するわけである。確率は低いけれど作品が映画化とかテレビドラマ化すれば少しはましか。

わたくしは読者として、十年以上前の作品を購入したいと思っても新刊では入手できないとゆう現状に苛立ちをおぼえるものである。以前述べたがノーベル賞を受賞しなければ大江健三郎の文庫がかなり削減されただろう。

中規模な書店内を観察していて、文化レベルやその多様性を維持することを放棄して、実務的(本当に役に立つのかは不明である)な方向に走ってしまっていいのか。
村上春樹ひとり勝ちでいいのか。そのような危惧を有する次第でありました。
posted by 井上勝裕 at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 世間さま | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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