あるとき、はがねの相場が上がれども御得意はそれを認めず。認めずならまだしも安き値で売らうとせんと商売敵があるが如何すると問はれ外交のもの困り、旦那にその判断を請ふ。
いま二十八銭の値では合ひませぬ。高騰すさまじく三十五銭で願い出たのでありますが、御得意様が仰るには
「わかつた。が三十四銭で売るといふ店があるが、それがしも情を通し御店で買ふわけには参らぬ」
とのこと。
「だういたしましよう旦那様、競合先と同じく三十四銭に値を合はせるか確実な処では三十三銭に下げるしか手はございません」
ぢつはこの品仕入れ値が三十二銭也。重さは十貫以上、かさも張る。あまり美味しい商売ではないものの何せ量だけは出る。競争も激しい。
外交は一銭だけでも利が出ればよしと考える。損はしていない。
旦那はしばし眼を瞑り考えこみながら
「よし、二十九銭で売らうよ。御得意様もおよろこびになる」
と嬉嬉として宣ふ。
皆は気でも違つたのかと心配す。一個売る度に三銭損をする。三十四銭なら二銭、三十三銭なら一銭の利が生じる。
旦那は心中でかう呟く。
「どうせ損をするのは同じ、恐ろしいのは一銭利を得ているといふのは錯覚で、油代、紙代、人手、倉の保管等に費用が生じ大赤字なのに、売らうといふ気になる。売つて欲しくないので損をしていると一目瞭然であれば売つては不味いといふ抑へもきくだらう。この品の商ひに消極的なんだよ。わかつてもらえないだらうなあ。給金も出ない商ひに積極的ではただ働きを強ひる体質になる。みなの価値を軽視することに通ず。此れは店のあるべき姿に非ず」
斯くして二十九銭の値がつけど、飛ぶやうに売れたとは言ひ難し。大赤字な故、売り難しありさまがあり躊躇ひが生じた為也。
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